無造作に床に積み上げられた本を書架のあるべき所に戻す作業中、中学校時代の機関誌「青雲」が顔を出してきた。
ふと中身に目を通してみる、巻頭言には部活を通じての恩師でもあった宗像先生の一文「カキクケコ」があった。
ここで師が仰っている、
・問題提起型、感覚型の人間になる
・人の話をよく聞き、本を読み、新しい記憶(知識)の導入に努める
・訓練によって自分自身を高め
・自己研鑽・研究に励む
・そう決意したら、生涯これを全うする根性が必要。
これを自分も座右の銘にしようと思った当時のことが思い出される。そしてこれらは、生産労働からの開放が射程内に入った今こそ、より大切なものに思えてきている。
ここで「論理の時代から感覚の時代へ」「フィーリング時代」への時代の流れに即応した人間となることを師は示唆しているが、ここで注意すべきは、「感覚型」の直前に「問題提起型」であることを主張されている。きっと、「感覚」を伴う「論理」の大切さを我々に教えたかったに違いない。40年以上経過した今再読し思うのは、これを感覚先行、単なる時代状況の肯定ととらえると、大いに誤読してしまう、ということである。
しかしてその後の時代の変化はどうだっただろうか。10年も待たず起きたのは「名目価値」の異常な肥大化、自己増殖。付加価値でボロモーケの手法が全産業で拡大した。そしてそれは「感性の陶冶」と対極にある「フィーリング」、理詰めでいけば破綻するものに対する「逃げの言葉」としての安直なキーワードと化してしまった。
先生のこの言葉を大切にしつつ、願わくば、論理の時代への回帰を望むところである。