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 仕事と呼ぶに値しないほど、暇な毎日が続いています。労働量は昨年比の40%、生命か経済か、などと愚劣な議論が相変わらず健在ですが、正業が立ち行かなくなって最後の選択として不本意ながら自死を余儀なくされた方の生命はここでいう「生命」と見做していないのか、全く以て怒りを禁じ得ません。

 こんな日常ですから、当然読書量も逓増します。そして怒りと不安ばかりが頭の中を去来しますので、こういう本でその部分を研磨し、角を取ることにしています。

 この話は「解放区」を撤収するところで話は終わっているけれど、その後の彼らの家族関係はどうなっただろうか。新学期が始まって、円滑に授業を受けることはできただろうか。両親の仕事は以前と同じようにきちんと、正業として成立しているだろうか。教師たちの処遇は?いずれも思わしくない形になってしまっていることと思う。

 体制や権力の横暴、管理教育による主従関係の強要、硬直した家族関係と価値観の押し付け、情実主義、縁故主義等々、彼らが異議を唱えるべき対象の選択は極めて真っ当だと思う。

 しかし若さ故か、闘争を挑む場合に大切なことを往々にして忘れがちである。それは、「破壊」の後に「創造」する価値観まで考えていないといけない、こうした行動は「はじめる」ことよりも「やめる」「おりる」ことの方がはるかに難しい、ということである。盛り上がりを見せている最中はそのやめ方までは想像しないだろうけれど、彼らの父母の世代が真剣に取り組んだ「全共闘」も、高揚感の渦中に身を投じることが自己目的化し、その到達点とその後の構想を描くことができなかったことが、失敗の原因だったのだろう。闘争は本来の理想を実現するための手段に過ぎない筈なのだ。その失敗体験を語ることができる大人も、どうやら彼らの周囲にはいなかったようだ。

 決起行動がもたらす高揚感や達成感、それらが沈静化した後に待ち構える作業は、自分達が破壊した残骸と向き合う、ということだ、それは多くの場合生身の人間とその生活だ。そのためには、「行動を起こす」ことよりも、はるかに強靭な精神力が必要とされる筈なのだが、果たして彼等にそれができるだろうか。決起行動は集団で行う一方、こちらは「個」としてしなくてはならない。その点も大きな違いだ。本書ではその部分は触れてはいない。読者が各自で想像せよ、ということか。
 彼等の前途にはきっと、長期にわたる贖罪を必要とする現実が待ち構えているに違いない。そう思うとこの爽快感あふれる外装デザインに反し、いささか鈍重な気分になる。